ある町に、ある少女が一人で住んでいました。
彼女以外に、その町で生きている人は、誰もいませんでした。
彼女は――まあ、比較する相手がいませんが――特別可愛いわけでも、特別不細工なわけでもない、ごく普通の女の子でした。
とても長い黒髪と、黒と呼ぶには薄いけれど、茶色と呼ぶには少し濃い色をした瞳を持っていました。
彼女は朝早く、ちょうど時計が世界に六時を告げる頃、自然に目を覚まします。
彼女は眠い目をこすり、着替えを済ませました。
そして、彼女の部屋がある二階から、ダイニングキッチンのある一階まで降りていきました。
すると、木でできたシックなデザインをしたテーブルの上には、
すでに、パン、目玉焼き、紅茶、そして砂糖のビンが置いてありました。
誰が作ってくれたのか分からないのですが、もちろん彼女が作ったわけではないので、
”何か”――もしかしたら神様か、そうでなければ妖精でしょうか――が作ってくれた、ということにしておきましょう。
彼女は、その”何か”に感謝の意をこめ、「いただきます」と呟きました。
もちろん、返事はありません。
彼女は食べながら、目の前にある窓を見つめました。そこからはこの家の庭が見えます。
庭といっても、物干し竿とプランターがいくつか置いてあるだけの、小さな庭です。
プランターには、誰が世話をするわけでもないのに、季節ごとに綺麗な花が咲き誇ります。
今はちょうど夏の始めごろなのでしょうか。ヒマワリが小さな双葉を空に向けて伸ばそうと頑張っていました。
彼女はご飯を食べ終えると、食器を流しに置き、洗面台に向かいました。
鏡に映った彼女の顔は、まだ少しばかり眠たげでした。昨日夜遅くまで本を読んでいたせいでしょうか。
歯を磨き、顔を洗い、髪にくしを通しました。水道から出る水はとても冷たくて眠気も覚めました。
彼女は再び、二階に上がり、自分の部屋へと入りました。
鞄の中身を確認すると、理科のノートが入ってないことに気が付き、慌てて机から引っ張り出してきました。
もう一度確認をして、今日学校に必要なものがすべて入っているのを見てから、鞄のふたを閉めました。
身支度を終えた彼女は、本棚から、昨日途中で読むのをやめた本を取り出しました。
しおりが挟まっているページを開き、読み始めました。
今日はたまたま時間に余裕があるのでしょう。夢中になって読み進めます。
ときどき夢中になりすぎて、学校に遅刻してしまうこともありますが、今日はどうやら大丈夫。
ちゃんと家を出る時間には、本にしおりを挟みました。
鞄を背負い、一階に降りた彼女はキッチンに向かって、
――実際には、そこにいるであろう”何か”に向かって、「行ってきます」と声をかけました。
もちろん、返事はありませんでした。
†
家を出た彼女は、彼女の家を回りこむように、左に曲がりました。
家の横の道からは、木々の間から彼女の家の庭が見えました。
彼女がご飯を食べている間にはなかった洗濯物が、初夏の風に揺れていました。
きっと”何か”が干しておいてくれたのでしょう。”何か”はとっても働き屋さんだな、と彼女は思いました。
大きな川を越え、大通りを横断し、しばらく真っ直ぐ歩いていくと、大きな建物が見えてきました。
彼女の学校でしょう。彼女はその建物に入っていきました。
三階に上がり、ひとつ、ふたつ、みっつ教室を過ぎ、よっつめの教室へ入っていきました。
誰もいないのだから、席なんてどうでもいいのに、彼女は決まって窓際の前から三番目の席に座ります。
本当は何処でもいいのに、彼女はそこにだけしか座ったことがありません。
一時間目のチャイムがなりました。しかし、彼女はそれが聞こえているのかいないのか、窓の外を眺めたままです。
初夏色の空の下、小さな家がぎっしりと、大きな建物がちらほら見えました。
少し開けている空間は、公園か何かでしょう。
あちらこちらにその存在は確認できましたが、
友達と遊んでいる子供、ベンチで休んでいる人、散歩している老夫婦、ジョギングしている人は、
何処の空間にも見えませんでした。
彼女はふと、何故自分がここにいるのか思い出したように、黒板に目を戻しました。
さっきまでは書いてなかった数行の文字が、黒板には書かれてありました。
(書いてあったのは日本語ではなかったので、少なくとも私たちが住んでいる国の話ではないようです)
彼女はそれをノートに写し終え、また黒板に目を戻すと、再び数行の文字が増えていました。
彼女の授業は、今日もこんな形で進んでいきました。
お昼休みになりました。
彼女は鞄にさっきまで使っていたノートを戻し、鞄の中に手を突っ込みました。
その中には毎朝”何か”が作ってくれているお弁当が――ありませんでした。
彼女は一瞬動きを止め、慌てて鞄からノートを引っ張り出し、鞄の中を覗き込み、
筆箱しか入ってないことを確認すると、がっくりと肩を落としました。
仕方がないので鞄のサイドポケットに入っていた財布を持ち、一階に降りていきました。一階には売店があるのです。
がらんとした職員室の隣には、店員なんて誰もいない売店がありました。
彼女は一番手前にあったサンドイッチの値段を確認し、そこに書かれてあった金額ぴったりのお金を財布から出し、
それをカウンターに置きました。
教室に戻った彼女は、それほど美味しくもないサンドイッチを、他の人が見たら
――もちろん、彼女を見る人なんていませんが――「買ったのが間違いなんじゃない?」と思うほど残して昼食を終えました。
最後の授業の最後の五分になると、彼女は落ち着かなくなってきます。早く終わらないか、ということで頭がいっぱいなのです。
なぜかって?――友達も、先生も、事務の人さえいない学校が楽しいと思いますか?
彼女が黒板の最後の一行を写し終えると、終業のチャイムが鳴りました。
彼女は小さくガッツポーズをして、鞄にノートをしまいましたが、
黒板にさらに数行増えているのを見つけ、すごすごとノートを取り出しました。
ちなみに、彼女はノートに写している間中、ずっとしかめっ面でした。
†
学校を出た彼女は、家と学校を行き帰りする道の途中にある大通りに来ました。
今日は彼女が欲しかった本の発売日です。
彼女は本屋に入ると、カウンターの前に並んでいた本を手に取り、値段を見ました。
お昼ごはんに少し使ってしまったので足りるかどうか心配しましたが、ギリギリ足りる金額でした。
彼女は無人のカウンターに、本とお金を出しました。それからしばらく店内を見回しました。
ほしいな、と思う本は少しありましたが、今日はお金が足りないので今度にすることにしました。
カタン、と音がしたのでカウンターに目を戻すと、紙袋に入った本とお釣りがおいてありました。
彼女はカウンターの中にいるであろう”何か”に軽く会釈をして、お店を出ました。
店から出ると、一番近くの横断歩道の信号が、青になっていました。
彼女は慌てて走り出し、横断歩道を渡りました。彼女が渡り終えてすぐ、信号は赤に変わりました。
今度は車道の信号が青になりましたが、走り出すはずの車は一台もありませんでした。
それから彼女は朝来た道を戻り、家へと帰りました。
庭に干してあったはずの洗濯物がなくなっているところを見ると、”何か”がもう取り込んでしまったのでしょう。
玄関をあけると、キッチンからいいにおいがしてきました。多分、ケーキのにおいです。
彼女はちょっぴり嬉しくなって、早足でキッチンに向かいました。
テーブルの上には、切り分けてあるチーズケーキ、冷たい紅茶、ミルクのポーションがおいてありました。
彼女は鞄を放り投げると、さっさとテーブルについて食べ始めました。
気が付いたように「いただきます」と呟いたのは、半分ほど食べてしまったあとでした。
外ではまだ、太陽が世界に光を振りまいていました。
彼女はケーキを食べ終えると、使ったお皿を自分で洗い、鞄を持って自分の部屋に戻りました。
それから鞄から紙袋を取り出し、それをビリビリに破って本を出しました。
彼女はベッドにダイブすると、うつ伏せになって本を読み始めました。
その本は一人の男の子と女の子の話でした。
物語の途中までは上手くいっていた二人でしたが、ちょっとした誤解から別れ、
男の子がその誤解を解いたときには、もう女の子は死んでしまっていました。
彼女は、馬鹿だなぁと思いました。
最初から一人なら、一人になっても悲しくなんかないのに、とも思いました。
どうして人は人を求めるのでしょうか?
どの本を読んだって、誰かは誰かを求めていました。
一人でもこんなに楽しい人生があるんだよ、彼女はいつもそう思っていました。
別に、一人でだって・・・。
気が付くと、すでに日は暮れていました。
彼女は晩ご飯を食べに、キッチンへと向かいました。
自分で流した涙の跡から逃れるように、一階へと降りていきました。
彼女は知っていました。
本当は、いろんなところに、いろんな人が居ることを。
そうでなければ新しい本が出るわけないし、野菜だって育つわけはないし、楽器だって永遠に演奏されることはありません。
ただ、自分は、そのいろんな人が居るところからはぐれてしまったのだ、そう彼女は思っていました。
でも、はぐれたからといって、彼女は寂しいわけではありませんでした。
彼女はずっと一人で生きてきたのです。今さら一人で寂しいなんて思うことはありません。
でも、それなら何故涙を流してしまうのでしょうか?
その理由だけは、自分のことなのに、彼女は理解することができませんでした。
†
彼女が下らなくもどこか楽しい毎日を過ごしていると、
いつの間にかヒマワリの新芽も大きくなって、大きな花を夏の太陽に向けていました。
彼女の学校も、今は夏休みです。
彼女は自転車に乗って近くの海に行ったり、新しく買った本などを読んで、夏休みをのんびりと過ごしていました。
そんなある日のことでした。
彼女は庭の植物に水をあげていました。
今日がこの夏で一番暑いことは、彼女にだって十分分かっていたので、いつもよりたっぷりと水をまいていました。
庭ではアゲハ蝶が、夏の日差しに踊っていました。
彼女は水をまくのをやめ、じっと蝶を眺めました。
ひらひら、ひらひら。彼女の家の庭を優雅に舞っています。
そして、開け放たれた窓から、すーっと彼女の家に入っていきました。
彼女はそれを目で追っていくと、小さな、しかし明確な違和感を感じ、蝶が入っていった部屋を見つめました。
彼女は履いていたサンダルを脱ぎ、庭からその部屋に入りました。
その部屋は、机とベッドと小さな本棚があるだけの質素な部屋でした。
今まで彼女が入ったことのない部屋です。というより、こんな部屋があること自体知りませんでした。
扉があることは知っていましたが、あまり気にも留めていなかったのも事実です。
彼女は、まるで宝探しをするみたいに、部屋の中を歩き回りました。
ベッドには、誰かが今朝まで寝ていたような雰囲気が残っていて、彼女は薄気味悪くなりました。
この街には、彼女しか住んでいないはずなのですから。
本棚を見ると、つい最近出版されたばかりの本がありました。
そうか、ここは”何か”の部屋なのか――彼女がそう理解するのに、あまり時間はかかりませんでした。
彼女は壁にかかっている絵をしばらく眺めた後、机に目を向けました。
机の上には、一冊のノートとボールペンが無造作に置いてありました。
彼女は、そのノートを何となく開いてみました。
ノートの中は、日記のようでした。すらりとした、なかなか達筆な字で書かれていました。
†
1/24 晴れ
今日はエリーの14才の誕生日だった。
エリーが大好きなチョコレートケーキを出すと、エリーはとても幸せそうな顔で笑ってくれたわ。
誕生日プレゼントの大きなテディベアも喜んでくれたみたい。良かったわ。
エリー、誕生日おめでとう。
1/25 晴れのち曇り
今日はエリーとショッピングに行った。
エリーはずっと前から欲しがっていたピンクのワンピースを買えて幸せそうに笑ったわ。
私もブーツが古くなっていたから買い換えた。前の物とあまり代わり映えはしないけど。
彼女はぺらぺらとページをめくっていきました。
毎日毎日、とても幸せそうな文が続いているので、思わず彼女の顔もほころんできました。
きっと、この日記を書いている”何か”は、たくさんの幸せに包まれているのだなぁ・・・。
彼女はそんなことを思いながら読み進めました。
ところが、あるページにさしかかると、紙が一度濡れて乾いた後の、あのくしゃくしゃな感じになりました。
他のページはまったく濡れていないのに、そこから急にくしゃくしゃになっているのです。
彼女は何故か少しだけ緊張して、そのページを開いてみました。
2/13 曇り
今日、エリーの学校で事件が起きた。
銃を持った男が学校に侵入して生徒7人を撃ち殺し、自殺した。
殺された生徒の中にはエリーの親友のジェシカとルーシーがいたらしい。
哀しいなんて、そんな程度のものではない。
犯人のことを絶対に許したりなんかしない。
エリーの様子がおかしい。私の呼びかけに反応しない。
明日病院へ行ってみようと思う。
悲鳴、銃声、鮮血・・・。
誰かが書いた日記の中の出来事なのに、彼女が経験したことのない出来事なのに、
あるシーンが何度も何度も鮮明に、彼女の頭をよぎります。
気付いた時には、彼女は床にうずくまっていました。
彼女は立ち上がろうとしましたが、足に力が入らず転んでしまいました。
机を支えに立ち上がり、ノートを閉じようとノートに手をかけました。
そのとき、ノートに貼ってあった一枚のメモに目が行きました。
ノートに書かれていたのとは違う、乱雑な、男の人の文字でした。
病名:
PTSD
症状:
1 人を認識しない。
(身に着けているものを含む)
2 人が動かしているものを認識しない。
(誰かが乗っている車、誰かが投げたボール、誰かが何かを書いているペンなど)
3 人が関係した直後のものを認識しない。
(黒板に書かれたばかりの文字、テーブルに置かれたばかりのパンなど)
ただし、3番については少し時間がたつと見えるようになるらしい。つまり、学校へ行くなどの日常生活には支障はないと思われる。
医者である私も見えないようなのでケアの方法は今のところ皆無である。
彼女はそのメモを3回ほど続けて読みました。
頭がそのメモの内容を理解しなかったからです。
PTSDとは一体何なのでしょうか?聞きなれないその単語に、彼女は困惑していました。
そして、そのメモの下には、
エリーは私を見てくれない。
と書き添えられていました。
「・・・エリー・・・?」
それは、一体誰なのでしょうか。
”何か”の知り合い?家族?それとも・・・?
さっきまで幸せに包まれていたはずなのに、急に哀しい文字の羅列となった日記を、彼女は睨みつけました。
彼女は震える手で、乱暴に次のページをめくりました。
2/14
エリーは今日も私を見てくれていない。
2/15
エリーは今日も私を見てくれていない。
2/16
エリーは今日も私を見てくれていない。
2/17
エリーは今日も私を見てくれていない。
何ページ開いたところで、その書いてある一文だけは変わりませんでした。
彼女は何ページも何ページもめくり続けました。そして、ついには次のページは白紙、というところまできました。
最後のページの日付は昨日のものでした。
一体誰が書いたというのでしょうか?
”何か”が書いたのだとしたら、”エリー”とは誰のことなのでしょうか?
彼女は、すでに答えを見つけました。
しかし、それだと――・・・。
ゆっくりと、ドアの開く音がしました。
背の高い、しかし、病的な細さの女性が入ってくるのが、彼女の目には映りました。
顔は青白く、目の下には遠くからでもはっきりと分かるであろう、くまができていました。
瞳は虚空を見つめ、彼女には目もくれませんでした。
彼女がよく知っている姿とはかなりかけ離れていましたが、彼女はその女性が誰だか知っていました。
「・・・お・・・かあ・・・さん?」
突然、その女性が彼女の顔に焦点を合わせました。
「・・・エリー?私が・・・わかるの?」
当たり前です。今まで、ずっと一緒に暮らしていたのですから。
さっきまで一人だった彼女が、ものの十分ほどで、今では二人になりました。
女性が――彼女の母親が、彼女の肩を掴みました。細すぎる腕からは想像できないほど強い力でした。
「エリー!私のことが分かるのね!?よかった・・・!もう、治らないかと・・・」
母の手が、指が、爪が、彼女の肩に食い込んでいきました。
彼女は「痛い」とは言いませんでした。
なぜなら、思考回路のほとんどを、別の考えが占めていたからです。
何か、忘れているような――。
カチリと、時計の秒針が動きました。
カチリ、カチリ、カチリ・・・。
――カチャッ。
「・・・う・・・ぁ・・・」
悲鳴、銃声、鮮血。
「次は、お前だ」
――カチャッ。
外される安全装置。向けられる銃口。
「・・・イィィヤァァァァアァァァァ!!!」
彼女は、走り出していました。
どうやって母の手を振り解いたのかなんて分かりません。
悲鳴、銃声、鮮血。
裸足でコンクリートの道を駆け抜けました。
石につまずいて足の爪が剥がれてしまいましたが、痛くはありませんでした。
爪から滲んでくる血を見て、彼女は再び飛び散る鮮血を思い出しました。
「イヤ・・・全部・・・消えて・・・っ!」
もう誰もいらない。
一人だったら、誰かが死ぬなんてない。
一人だったら、悲しい想いなんてしない。
一人だったら、恐くなんかない。
だから、一人を選んだのに――。
無理やり閉じ込めたのに。
楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しかったことと一緒に。
でも、こんなに簡単に壊れてしまうなんて。
涙で前が見えませんでした。
気付いたら、道路の真ん中にいました。
信号は赤でした。
彼女には向かってくるトラックが見えませんでした。
だって、彼女の中では、彼女一人しかこの街にはいないのですから・・・。
「・・・残念ですが、娘さんは・・・」
顔の青白い女は、放心したようにその場に崩れた。
機械的に悲しい顔を作り、機械的に口を動かす。
まぁ、医者を十五年もやっていればなれることだ。
正直なところ、車や他人という危険が見えない状況で、半年も生きれたのは奇跡としかいいようがない。この辺が潮時だったのだろう。
屍のような女を見て、こいつもPTSDになるんじゃないかと半分冗談、半分本気で思った。
白衣を翻し、すたすたと歩き出す。後ろから看護婦かついてくるのを確認する。
「凄い事故でしたね・・・」
「あぁ、まぁな」
確かに、あれほど悲惨な遺体を見たのは久しぶりだ。
あの女の子にとって幸いなのは、即死だったから、おそらく痛みは感じていないだろう。
「狂ったように走ってきただなんて・・・。先生、彼女に何があったんだと思いますか?」
看護婦が言う「彼女」とは、さっき運ばれてきた交通事故で死んだ女の子だ。私はそう解釈した。
「さあね。私にだって分からないことはある」
そう言ったものの、頭の中ではすでに自分なりの回答ができていた。
「本当ですか?先生のことだから、何か考えはあるんじゃないですか?」
流石に七年も付き合っていると見抜かれてしまう。私は観念して喋り始めた。
「彼女の母親が言うには、事故直前、PTSDの症状がなくなっていたらしい」
あえて「治った」とは言わないでおいた。
「PTSDが・・・治った?あの重度のPTSDが?」
看護婦は「治った」と使った。
微妙なニュアンスの違いを指摘しようと思ったが、面倒臭かったので短く
「さぁ、治ったかどうかは分からないけれどね」
とだけ言っておいた。
「何故それが?」
「母親のほうに聞いた。あの女の子が、『お母さん』と呟いたらしい」
「はぁ」
同僚とすれ違ったので、「よぉ」と言いながら右手を上げて挨拶をしておいた。
「で、彼女が家を飛び出したあと、母親が机の上を見ると日記が開いてあったそうだ。
女の子が見たのだろうね。もちろん、事件のページも」
「はいはい」
「そこから予測するに・・・彼女は、狂ったのだろうね」
「・・・はい?」
看護婦が胡散臭そうな顔で私を見た。何が胡散臭いんだ?
「彼女がPTSDになったのは・・・まぁ、実際にPTSDだったかどうかも本当のところは分からんが・・・それはいいとして。
・・・おそらく、PTSDになることで記憶を閉じ込めたのだろう。
殺されていたかもしれないという強烈な記憶だ。そうでもしなければ、精神が崩壊していただろう。
だから彼女は、自分を守るためにPTSDという形をとった」
「なるほど」
と言いつつも、顔は全然なるほどという顔をしていない。私は心の中で、肩をすくめた。
「しかし、過去を見てしまった・・・いや、思い出したと言うべきかな?
とにかく、母親の日記を見たことで、PTSDという盾がなくなってしまった。
そして、彼女に残された方法は――狂うしかない、というわけだ。むしろもう精神崩壊していたのかもね」
「そんなものですかね」
看護婦は少し納得できない様子だった。
「そんなもんさ、人間なんて」
さてと、次の患者さんは誰かい?と看護婦に尋ねると、近所のワガママ爺さんの名前が返ってきた。
やれやれ、と思いつつ、頭の中では爺さんを上手く言いくるめる方法を考え始めている。
ふと、窓の外を見た。
外では夕日が世界に別れを告げようとしていた――。
†
一人でいるのが 幸せなんだ
痛みもない 悲しみもない 怒りもない
無駄な争いもない 涙もない
こんなに幸せな生活なんて 誰かと一緒じゃ 見つけられない
それなら この心の痛みは なんて説明したらいい?
幸せなはず それなのに何故?
大丈夫 きっと気のせいだ
自分に 必死に 言い聞かせた
春は穏やかに
夏は軽やかに
秋は涼やかに
冬は緩やかに
一人でずっと 生きてきた
嘘で作られた世界
――嘘を見なければいい
悲しみで溢れてる世界
――悲しみを拒めばいい
本当に一人?
本当は一人?
そうだ 私は一人
傷つきたくないなら 閉じこもればいい
目次へ
