細い山道を、一台の車が走っていった。 何の変哲もない唯のワゴン車だった。 乗っているのは、ひょっとしたらまだ免許を取れない年なのではないかと思わせるほど、幼い顔立ちの青年だった。 彼はその顔ににじみ出る疲れを隠そうともせず、黙々と運転をしている。 不意に、助手席の彼の携帯電話が、今流行りの歌とともに光った。 彼は軽く舌打ちをして、車を道の脇に止めた。 まだ片手運転ができるほど上達はしていない。こんな所で事故を起こすのはゴメンだ。 彼は携帯の液晶画面を見て、はてな?と首をかしげた。自分の知らない電話番号だったからだ。 しかし、友人が「携帯変えた」という内容の電話を掛けてきたとしたら困るので、一応出ることにした。 通話ボタンを押し、スピーカを耳に当てると、若い女の声がした。 「もしもし、私は○○社の榊原と申します。今、我が社ではマンションの―――」 『マンションの』までを聞いて、彼は苛立った。セールスか・・・。 「うちは、そういうのは結構です」 正直、彼は『マンションの』以後は聞いてなかったので、何が『結構』なのか自分でも分からなかったが、これ以上バカな電話に 付き合ってもいられないので、電話を切った。 長い長い溜め息をついて、上を見上げた。そこには青く澄んだ空ではなく、黒い車の天井だけが見えた。 † 僕がこの街に来たのは、九歳の頃だった。 両親が「田舎に住みたい」などと言い出し、僕には何の話もなく連れられて、ここへ来た。 住み慣れた都会を離れるのも、友達との別れも、嫌だったし、何より辛かった。 でも、今ならまだしも、まだ小さい僕がどうすることもできず、大人しくここに来るしかなかった。 学校へ行った最初の頃は、「都会から来た」という理由でいろいろな人が集まってきたが、一週間もすれば僕は一人になった。 授業は退屈で、休み時間に何をするでもなく、もちろん学校は一日の時間の中で一番嫌いになった。 唯一、こんな田舎を好きになった所といえば、近くを流れる川だけだった。 流れも速く、深さも相当あるので泳げるわけではないが、光の粒が水面でキラキラ反射しているのを見るだけでよかった。 僕は毎日、学校からの帰り道で、川を日が沈むまで見ていた。 † 何分経っただろうか。彼は視線を前に戻した。エンジンをふかし続けるのは、環境にもよくない。 彼はハンドルを握り、運転に集中した。何も考えなくてすむように。 森の中の舗装されていない、初心者にはまったくもって迷惑な道を抜けると、森が開け、民家の集落が遠くに見えた。 大きな川に架かった橋を通ると、見慣れた光景が見えた。 帰ってきた、と言うより、帰ってきてしまった、という気持ちがして、溜め息とともにそれを吐き出そうとした。 窓を開けると、懐かしいにおいがした。 † 初めて友達ができたのも、あの川を眺めているときだった。 「あ、潤一君だ」 小さいけれど、はっきり聞こえたその声の持ち主は、クラスメイトの高杉という女の子だった。 さも親しいように下の名前で呼ばれたのと、名前を覚えられていたことで、二重の驚きを感じた。 「潤一君っていつもここにいるよね。帰り道見るよ」 「……まぁ」 今考えると恐ろしく暗い子供だったと思う。東京にいた頃はもっと明るかったはずだが、いつの間にかひねくれた子供になっていた。 「………学校、つまんない?」 「えっ?」 いきなりそんなことを切り出されるとは思わなかった。もちろん、返答に困った。 どう答えようか、そんなことを考えているうちに、彼女が口を開いた。 「私は楽しいよ、学校」 「……それは……」 学校で見る高杉はいつも友達に囲まれていて、楽しそうに笑っていた。 彼女のつまらなさそうな顔なんて、一度も見たことがなかった。 だから、僕はこう言った。 「それは、友達がいるからだろ?」 この時、僕は心のどこかで、高杉はそれを否定してくると思った。 「友達なんか関係ない」とか、「別のことが理由だよ」とか。 いつも近くにある幸せには、誰も気付いているはずがないと僕は思った。 たった九歳でそんなことを考える子供もどうかと思うが、その時、僕はそう思ったのだ。 だから、素直に「うん、そうだよ」と言われたときは拍子抜けした。 「友達がいれば楽しいよ」 高杉はそう言って笑った。 何なんだ、この女は。僕はいらついた。何なんだ、一体?「自分には友達がいますよ」という自慢がしたいのか? 今から思えば、高杉という少女から自慢話を一つも聞いたことがないが、その時はそんなこと知るよしもない。 とりあえず黙らせるか。そう思って彼女を睨むと、何故か笑い返してきた。そんなリアクションは期待していない。 僕を見つめて笑ったままの、彼女の次の一言に、僕は驚くを通り越し、呆れたものだ。 「君に友達がいないなら、私が記念すべき友達一号だねっ!」 僕はその言葉の意味を理解するのに、十秒はかかったと思う。 その間、高杉は僕のことをじっと見ていた。僕は多分、間抜け面で彼女を見つめていたと思う。 僕がその言葉を理解した時、発した言葉もまた間抜けだった。 「は?」 † 彼――潤一は、まったく変わっていない、というより変わるはずもない、かつての自分の家の庭に車を止めた。 あまり広くない庭なので、どこかにぶつけないか心配だったがわりと上手く言った。 そのせいで気が緩んだのだろう。最後の最後でガシャンという音が聞こえた。聞こえないふりをしたかったが、そういうわけにもいかない。 車の後ろ側に回ると植木鉢が倒れて無残な姿になっていた。悪気はなかったのだが。すまない、名前も分からない花。 やってしまったなと思いながら破片を拾っていると、玄関が開いて、中年の女性が中から出てきた。 「あんた、何やってんの?」 「あ……」 見られる前に片付けようと思ったが、それは叶わなかったようだ。 「だ・か・ら、電車で来なさいって言ったの!ああ、私の可愛いレインリリーが……」 「だって、駅遠いじゃん……」 「そんなことぐらい分かってるわ!若者なんだから少しぐらい動け!」 「………」 しばらく会わないうちに言うことが年寄り臭くなったな。 自分の母親に言うのも気が引けたし、またいろいろ言われるだろうと思ったので、心の中だけでそう呟いた。 潤一は何となく母親の後ろをついて家に入った。 見慣れた玄関と、いきなり視界に現れる階段と、居間に続く廊下が、懐かしい匂いとともに潤一を出迎えた。 母親は「適当に座ってなさい」と言うと、丁重にお茶を出してくれた。 客用の湯飲みが、もう潤一がこの家の住人ではないことを再認識させた。 「一人暮らしはどう?」 母親が真向かいに座った。何となく恥ずかしいが、顔を背けるのも何かなと思い、とりあえず視線を下に落とした。 「まぁ、ぼちぼち」 「ご飯はちゃんと食べてる?」 「ん」 母親の顔を盗み見ると、少し険しい顔をしていた。適当な返事しかしていないからだろう。 「あのねぇ―――」 「あ、花菜は?」 小言を言われそうだったので話題を無理やり変えると、母親はあからさまに嫌な顔をした。 しかし、気を取り直したのかすました顔に戻った。 「友達と遊びに行ったわ」 折角兄が帰ってきたというのに、何て薄情な妹だ。 そう毒づくと、 「何言ってんの、あんたも高校生の時は遊びまわってたじゃない」 そう一蹴されてしまったので、黙るほかなかった。 高校生、か……。 去年のことなのに酷く遠い昔に感じられた。 そして、それを思い出したことによってこみ上げてくる感情を、無理やり封じ込める。 思い出すな。自分に言い聞かせ、ぐっと目を閉じる。 手が震える。心が震える。感情のうねりが襲い掛かってくる―――。 「潤一?」 母親の心配そうな声で我に返った。酷く倦怠感がした。 「……大丈夫だよ」 そう言って母親に微笑んで、お茶を飲み干した。上手く笑えているか分からなかったけれど、この際どうでもいい。 「ゴメン、ちょっと休むわ」 「そ、そう……」 母親の心配そうな声をあとに、居間を出た。 重い足で自分の部屋へと続く階段を見つめると、一番上の窓から夕日が射し込んでいた。
